詩集タイトル決定と、ぼくはなぜ詩を書き始めたか
フェイスブック、ツイッターではお知らせしましたが、今度スモール・キャピタルから(名前変更後第一弾!)出そうと思っている詩集のタイトルを、
『おとはきこえ』
に仮決定しました。
以前のペンネームの乙脇こえ(「かく」第5号のみその名前)と「音は聞こえ」をかけて。
表紙をデザインしたら、「新刊情報」のページに載せようと思います。
ぼくは何かメッセージを伝えたくて詩を書き始めたタイプではありません。
アコースティックギターを弾きながらフォークソングを歌うように詩を作るのではなく、既存の「言葉」というものを使ってできる、新しい「音」、その世界みたいなものに興味があったのだと、今になって思います。もちろん最初からそう自覚して詩を作り始めたわけではなく、あくまで振り返って分析してみて、という話ですが。
もっと思い返してみると、ぼくは一時期、安部公房にはまっていた時期があって、「こんな小説が書きたい!」と不遜にも思い、小説を書き始めました。すると、できてきたものを読んでみると、「なんだこれは。詩みたいになったな」ということになり、いっそそれを詩にしようとしてできたのが「魚」という詩です。それ以降、ふとした瞬間に、音としての言葉が浮かんでくるようになり、それを詩にする作業を毎日のようにしていました。2011年の暮れの話だと思います。
そんなこんなで、同じく執筆をしている友達と話して、冊子を作ろうということになり、「かく」が生まれたのです。「魚」はその創刊号の最初の詩として載っています。
初めから一貫しているのは、詩は意味を伝えるというよりは、その音の世界の面白さを味わうものという考えだと思っています(その考えに取り憑かれると、自己模倣に陥っていけないのですが)。すでにある言葉という素材で、新しい音楽を作る感覚で詩作しています。
以前、ある人に「詩と散文の違いは?」と聞かれて困ったことがありました。その場ではちゃんと答えられず、今もその答えはちゃんとは持っていないのですが、現時点で少なくともいえることは、「音」という言葉だけかもしれません。
もちろん、言葉の持っている「意味」をおろそかにしているわけではなく、むしろ言葉から意味を取り去ることは不可能なので、意味というものを含んだ音で作られる音楽(?)みたいな感覚です。
あまり持論を書くと、肝心の詩が味わえなくなりそうなのでこのへんでやめますが、自分の詩を自分で分析してみたらこうなりました。
今度の詩集は、集大成的(墓標的)にしようか、あるテーマを持って集めた小詩集にしようかは、実はまだ迷っているのですが(その折衷になるかもしれませんが)、進行状況はできるだけ伝えていこうと思っています。できるだけ。
なにごとも締め切りというものが必要だと思うので、目標は今月中にと考えています。それまでしばらくお待ちください。