そうだ、見附島があるじゃないか
ぼくは、ゆき場のない感情を抱えた時、見附島に行く。
見附島とは何か、ご存じない方も多いと思う。いきなり見附島などといわれても困る、なんなんだ、とお思いかもしれない。説明しよう。
見附島というのは、ぼくの暮らす珠洲の最も有名な観光スポットといっていいだろう。島といっても無人島だし、周囲の長さを測ったところで100メートルほどではないだろうか。
島といっても、上陸は容易ではない。高さ十メートルほどの断崖がすなわち島そのものなのだ。海の中に突然現れる、ほぼ垂直にそそり立った山が見附島なのだ。だから、近くまで行ったところで、普通、上陸しようという気は失せるはずだ。
だが、近づくこと自体はそう難しくはない。浜から見附島までは歩いて渡れる道が作られており、それは岩を集めて作られた道なのだが、ひょいひょいと渡っていけば、島のすぐ目の前まで行くことができる。岩の道はだいたい50メートルほどだ。初めての人にとっては険しい道かもしれないが、珠洲の人間なら誰でも簡単に、ひょいひょいと渡れる。誰もが経験済みのことだ。
なぜ「見附島」なんて名前なんだろうか。その形から軍艦島なんて呼ばれたりもするが、珠洲の人間でそう呼ぶ者はいない。見たことがない。いたとしたらモグリだ。見附島は見附島なのだ。弘法大師さまが見つけられたから、見附島なのだ。そう、弘法大師、空海が珠洲を訪れたとき、見つけられたのだ。しかし、ぼくはその話を初めて聞いたとき、小学生だったと思うが、いや待て、そんな馬鹿な話があるか、と思った。だって空海が訪れる前から、空海が生まれるずっと前から見附島はあったはずだ。こんな目立つものが空海が来るまで誰にも気づかれずに、ある日突然見つけられたなんて考えられない。いくら空海といっても、「おれが見つけたんだ」なんて勝手に名づけ親になるなんて、いくらなんでも横柄ではないか。ボイス少年は幼心にそう思ったのだ。
ただ、その憤慨は最近になって釈然と(?)した。こういうことだ。
空海が唐に渡って密教の極意を習得し、その証として三杵というものを授けられた(三杵が何か、ぼくは知らない)。しかしそれをよく思わなかった唐の僧たちが、日本に帰ろうとする空海を港まで追い詰めた。空海万事休す。しかしそれほどのことで敗れる空海ではない。その三杵を空高く放り投げ、「密教有縁のところに行きて我を待つべし」と言い放った。言い放ったはいいが、空海自身とて三杵がどこに行ったか、見当はあるのだろうが、とにかくそれを探すしかない。その旅の途上、佐渡から能登に渡る船の上、珠洲の辺りで法華経を誦む声が流れてきた。そこでなにやら目立つある島を頼りに着岸、村の者らの案内により、三杵のひとつ(三杵はいくつかあるらしい)「五鈷杵(ごこしょ)」を珠洲の山で見つけることができた。そこでそこに吼木山法住寺を建立し、めでたくその後も他の三杵も佐渡や高野山で見つけることができた。法住寺は珠洲の中で最も歴史ある寺のひとつで、大きな仁王像が山門におり、国の重要文化財もかかえている。で、空海が着岸の目印としたその島が、お気付きのとおり、見附島なのだ。そう、空海に「見つけ」られたから、見附島。
これは見附島のある海岸にある立て札に書いてあったこと。これを大人になってから読んで、一応ではあるが、納得した。こんないい話を聞かされたのでは、「空海が見つけたから見附島だ」と思わざるをえない。その立て札には、そのときの記念として、島上に社が建てられたが、能登沖地震や台風の影響でそれは壊れ、本来の姿は拝むことができないと書いてあった。
え、見附島の上に社が!
誰も上陸したことがないと思っていた見附島の上には、社が建っている! あの小さな、しかし大きい断崖の上には人の作った構築物があるなんて思わなかった。その姿を思い浮かべると、なんだか少しわくわくしてくる。うん、考えてみればそれくらいやってもいいはずだ。それが人の営みというものだ。特に自然破壊というわけでもないだろう。空海ゆかりの怪奇な島に、記念の社があったっていいではないか。
しかしそれを知ってしまうと、欲が出てくる。すなわち、それを見る機会はないだろうか、ということだ。上陸が容易ではないとは先に書いたが、宗教施設である以上、しかるべき時にしかるべき人が入ってもいいではないか。誰か管理している人がいるはずだ。まあ、いたとしてもぼくが島に上陸できることはないだろうが。でも今後の珠洲のためにも、見附島の上の社の整備が行われることを、ぼくは望む。
ああ。珠洲のことをちょこっと紹介するつもりが、こんな顛末になってしまった。なにが今後の珠洲のため、だ。まあ、半分真剣なんだけど。それから、この文章の最初の一文「ぼくは、ゆき場のない感情を抱えた時、見附島に行く」はどうなったんだ。詩的にこの見附島の風景を語ろうと思ったはずだったのに。
でも「ゆき場のない感情を抱えた時、見附島に行く」ことは本当で、波の音を聞き、観光客の有象無象を眺めていると、不思議とその感情は浄化され、少し、救われた気分になることは確かだ。これも空海の霊験だろうか。
そんなわけで、これからも、何かの折に珠洲のことを紹介したいと思っています。さて、次は……?

追記:「三杵」というのは、密教のお坊さんが持っている、あの鉄アレイみたいな、金属でできたけったいな法具のことだということがわかりました。