方言ディスコミュニケーション ②
唐突だけど、次の文は、宮沢賢治の短編「十六日」の中の会話文。
(好ぎたって云ったらおれごしゃぐど思うが。そのこらぃなごと云ってごしゃぐような水臭ぃおらだなぃな。誰だってきれいなもの好ぎさな。おれだって伊手ででもいいあねこ見ればその話だてするさ。あのあんこだて好ぎだべ。好ぎだで云え。こう云うごどほんと云うごそ実ぁあるづもんだ。な。好ぎだべ。)おみちは子供のようにうなずいた。嘉吉はまだくしゃくしゃ泣いておどけたような顔をしたおみちを抱いてこっそり耳へささやいた。(そだがらさ、あのあんこ肴にして今日あ遊ぶべじゃい。いいが。おれあのあんこうなさ取り持づ。大丈夫だでばよ。おれこれがら出掛げて峠さ行ぐまでに行ぎあって今夜の踊り見るべしてすすめるがらよ、なあにどごまで行がないやなぃ様だなぃがけな。そして踊り済まってがら家さ連れで来ておれ実家さ行って泊まって来るがらうなこっちで泣いで頼んでみなよ。おれの妹だって云えばいいがらよ。そして出来ればよ、うなも町さ出はてもうんといい女子だづごともわがら。)
パソコンに打つのに結構苦労した。
文脈などでわからなくはないところもあるかもしれないが、正直、さっぱりだ。わかるとことろといったら、
「誰だってきれいなもの好ぎさな」
「好ぎだで云え」
「大丈夫だでばよ」
「おれの妹だって云えばいいがらよ」
くらいのもので、この箇所なら、標準語にも近いし、濁点をとればオーケー。しかし、
「伊手ででもいいあねこ見れば」
とか、
「いいが。おれあのあんこうなさ取り持づ」
さらに、
「どごまで行がないやなぃ様だなぃがけな」
なんてどうだろう。方言そのものをわかってないというより、これはもう感覚の問題だと思う。会話文だけでなく、地の文もこの延長線上にある、独特の言い回しが多い。
岩手の人ならすらすら読めるかどうかはわからないが(賢治は岩手の人)、ぼくが岩手の言葉を単純に「知らない」ということだけに由来するものではないように思う。感覚として、馴染めないのだ。
このことをいうためには、ぼくの持っている読書感覚を説明したほうがいい。
ぼくは、読書するには、読むときのスピードが大事だと思っている。文そのものの持っているスピード感と、それを読んでいる自分のスピード感が一致したとき、それが最高に気持ちのいい読書、読書の快楽だと思っている。文そのものの持つスピード感は変わらないが、それを読む自分のスピード感は変えられる。だから、ねちっこい文体でも、ねちっこい読み方をすれば、案外内容が入ってくる。だから、速ければいい、というものでもない。逆に、すらすら読みやす過ぎても残らないことが多い。
ただ、自分のスピード感は変えられるといっても、人間なので限界はあるだろう。付き合い上、合わせられる相手、どうしても合わせられない苦手な相手は誰にだってあるはずだ。その分別は、理屈じゃなくて、感覚的に「苦手」とか「合う」とかが分かるだけだ。
本も同じで、「合う作家」「合わない作家」というものがある。本を読む人なら誰でもわかる感覚だと思う。
でも、ぼくがここでいう感覚は、例えば村上春樹のあのオシャレが鼻につく感じが嫌、とか、誰々の書く登場人物のキャラクターが嫌、とかそういうのではなく、単純に読んでいるときのスピード感が合うかどうかだ。合わせられるかどうかなのだ。
その意味で、この宮沢賢治(の「十六日」)は、とにかく合わせづらかった。
単に一文字一文字読んでいけばいいというものではないだろう。あくまで文章なので、全体として意味がつかめるかが重要だ。だから、
「どご……ま…で…行がない……や……なぃ…様だ…?」
などと読んでいても、意味がわからない。あくまで、最低限のスピードが必要だろう。
それはたぶん、ぼくが岩手の言葉を身体感覚として身についてないからだと思う。
ここで、言葉は身体感覚に身につくものだという持論がある。生まれた土地・育った文化というものは、体に身についているもので、どこにいても捨てられない、どうしても脱げない服、皮膚みたいなものだと思うけれど、言葉、つまり方言はその最たるもののひとつであると思っている。
だから、馴染みのない文化は、急には身につかないし、その文化の現れである方言で語られることで、どうしても、語り手の読者の間に感覚的な齟齬が生まれるのだ。
だから、ぼくは、岩手の言葉で語られて、どうしてもそのスピード感に合わせられなかったのだ。苦手とかいうよりは、ほとんど知らない文化の中に一人放り出されて、大きな戸惑いを感じたのだ。
もちろん、賢治の文学性を誹謗するものではない。きつねやうさぎなどの生き物だけでなく、どんぐりや、森、岩、山にまで生命が宿り、人と対等に話をするというその世界観自体は、日本文学の財産だと思っている。事実、他の短編、岩手の方言色の薄いものは読みやすいし、もちろん感動だってする。
ただ、やはり方言はきつかった。もちろん、その方言文体こそが、賢治の文学の真骨頂とみる見方もあるだろうが、きついことはきつい。体で感じる読書の快楽を唱えるぼくにとって、合わせるまでにかなり時間のいる読書だった。
そしてそのきつさは、その文の持つスピード感と自分の感覚とを合わせられないことに由来すると、今回気づいたのだった。「体で読めない」というもどかしさが、大変だった。翻訳することで「頭で読む」ことはできても、自分の身体感覚として「感じる」ことができなかった。
方言という、自分の持つ身体感覚。それに少しだけ自覚的になった。
イーハトーヴォは、遠い。