不確かなキオク、信用できないキロク
今日は確か4時だったな、と思い出した。
ぼくは書道を習っていて、市の書芸会というものに所属しているのだけど、先日、その色紙展なるものがあった。土日の二日間だけ、市のホールでやったのだけど、その片付けに行かなくてはいけないのだ。その時刻が午後4時のはずだったのだ。
しかし、一応確認のため手帳を見ると、「色紙展搬出15:00」と書いてあるではないか。
そうか、4時だと思っていたけれど、3時か。
だが、どうしても引っかかるものがある。ぼくの記憶ではやはり4時のような気がしてならないのだ。確認しようにも、スケジュールを書いた紙を会場に忘れてきてしまったし、3時なのか4時なのかを関係者に電話で聞くのも気がひける(そんな些細なこと)。
記憶の中の4時か、手帳に記録された3時か。
ぼくの中で、その二つがせめぎ合っていた。何の証拠もないけれど、自分では4時のような気がする。しかし手帳にはしっかりと3時と書いてある。これは歴とした証拠ではないか。書いたときに間違えたことも考えられるが、間違えたという根拠も特にない。
一方、記憶というものも目に見える形では見えないから、それが絶対に正しいとはいいきれない。
こんな実験がある。大学の講義の最中、教室に突然見知らぬ男(仕掛け人)が乱入してきた。彼は学生の一人のバッグを盗んで去っていった。その後に、その犯人がどんな男だったか、モンタージュを作るために皆で話し合った。その最中に、ある学生(これも仕掛け人)が「そいつはヒゲがあったよね」とはっきりと言う。実は犯人にはヒゲなどないのだが、その学生の一言をきっかけに、いつの間にか結果として、犯人にはヒゲがあることになったというのだ。
それくらい人の記憶というものはいくらでも捏造できるという実験なのだが、ぼくの場合もそれまでではないにしろ、あやふやなのかもしれない。
だけど、じゃあこの手帳のメモが正しいのかとなると、それもわからない。3時と書いてある以上、それが目で見てわかる以上、どうしても信じたくなるけれど、絶対とはいえない。単純に書き間違えかもしれない。現に自分でも素直には信じられない。
これはどうしても答えが出ない問題だ。しかし時刻が問題になっている場合、ひとつの着地点がある。早い方を選ぶことだ。間違うにしても、遅い方を選んで間違う(着いた時には終わっている)より、早い方を選んで間違う方がリスクは少ない。仕方ないのでぼくは3時に行った。
結果は、それは間違いだったのだけど、つまり本当の搬出時刻は4時で、手帳のメモが間違いだったのだけど、これでぼくは一つの教訓を得た。
記録よりも記憶を信じよう。
自分が書いたか知らないが、その文字として記録よりも、現に今自分の中にある、この記憶を信じよう。イメージとしての強さのある記録だが、それはこうも信用できないのだ。記憶は不確かだけれども、それが誰からの介入も侵されてないのなら、それは信じてもいいのではないか。
キオクとキロク、迷ったらキオクを選べ! ということをオチとしておこう。