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スモキャピ BLOG

土の匂い

 エルナニにとって、この紛争が少しずつ落ち着いてきているという状況だけが、今のささやかな希望だった。軍に所属する一人息子のフィートのことを思うと、今でも涙を禁じえない。二年前に本格的に軍の仕事に取りかかってからは、一家の長である彼もまだ一度も顔を見ていない。週に一度の手紙のやり取りだけが、今の唯一の癒しである。

「父さん。わが国の独立はもはや確実なものとなりそうです。私の努力も報われたようで、充実感を感じています。早くあの村の風景を確かめてみたいものです。元気な姿で会えるのを楽しみにしてます」

 最近の手紙にはそう書かれていた。

 軍に入る直前に母を亡くしたフィートは、根っからの甘えん坊で、いつも、かあさん、かあさんと言っては、乳離れしないものだった。そんなことをこいつは覚えているんだろうかと、父は目尻に皺を寄せた。

「もう皆さん、集会所に集まってるみたいですよ」

 お手伝いのカミラの声を聞いて無理やり表情を戻したものだから、逆に不機嫌なような表情になって彼は振り向いた。

「おお、今行くよ」

 この村の人たちの生計を立てているのは、主にコーヒーだ。特に、今ではスペシャルティなどといい、ありきたりのコーヒーとはわけが違う、最新の高品質の豆を栽培することに力を注いでいる農家が多い。その農家というのも、ほとんどが家族経営で、敷地面積もたいしたことはない。

 エルナニの家はその中でも新参に属するだろう。父の代まで、主に林業で生計を立てていたが、時代の流れで止む無く廃業、コーヒーという新地平を渡ることに賭けてみたのだ。それは三年ほど前の話でしかなく、今も、天候の不順や豆の価格変動に一喜一憂するばかりだ。早く軌道に乗せたい、安定した収入を得たいと、焦る気持ちばかりが募っていた。

 今日は、日本の機械会社から収穫機のセールスマンが来るとかで、その説明会が午後から集会所であることになっていた。特に何を持つというわけでもなく、彼は歩いて十分ほどの集会所へと出かけることにした。

 集会所はすでに大勢の人でいっぱいだった。この村の農家は皆、収穫は手摘みで、繁忙期には親戚を集めたりして収穫に取り掛かることになっていた。そんな中で機械化という選択肢を取るか否か、決めかねている農家は多い。エルナニ一家もその一つだ。

「この辺りは傾斜も多く、収穫もなかなか苦労かと思われます。特に高齢の方にとっては相当なものでしょう」

 セールスマンは英語でそのようなことを言っていた。エルナニとて、高齢ではないにしろ、去年に腰を傷めてからは、自分一人で農園中を立ち回るのはなかなか億劫になっていた。丁稚に来ている若い者は数人いて重宝しているが、彼らと自分を楽にしたいというのが機械化の最大の魅力だと思っていた。

 そのセールスを聞き終わるころには、彼はすでに収穫機の購入を決めていた。政府からの家族手当てを当てにしていたのもある。

 彼はその場で申し込み、機械の到着を待った。

 一ヶ月ほどして、ようやく機械を手に入れることができた。その使用方法を説明するということで、一ヶ月前とは別の日本人が彼に付くことになった。

「イトウです。よろしくお願いします」

 この国の言葉を使いこなしているようだが、机上で覚えた言葉といった感じで、実地的ではなかった。だが、そこに彼の、新規開拓の高揚感を感じられて、好感が持てた。風貌はいたって冷静には見えるが、その瞳の奥に燃えている何かをエルナニは感じていた。彼は逆にそれに気圧されて、彼ほどの情熱を持っていない自分がどこか惨めな、申し訳ないような気持ちになった。

「あ、どうも」

 そう答えるのが精一杯だった。

 そして早速機械の使い方の手順を習った。さほど難しくはなかったが、慣れるまでには時間がかかりそうだ。

 伊藤もさほど忙しくはないようで、作業がひと段落したところで休憩に入った。この国にはコーヒータイムやティータイムといった文化はない。地方独特のお茶はあるが、それをゆっくりと飲む時間というものがないのだ。彼も、コーヒーを栽培していながら、一度もそのコーヒーというものを飲んだことがないのだ。その事情は伊藤も知っていた。

「こうやってわれわれは飲んでるんですよ」

 クールな表情でそう言って、彼が取り出したのがドリッパーという器械だった。それを大きめの器の上に置いて、紙のフィルターと砕いたコーヒー豆を載せた。その上からやかんで沸かしたお湯をゆっくりと注ぎ始めた。

「本当はもっと口の細いのを使うんですけどね」

 照れながら「ドリップコーヒー」の説明をする彼そのものも含めて、エルナニは興味津々だった。

「苦いと思うかもしれませんが、どうぞ」

 勧められるがままに飲んだその琥珀色の液体は、苦さよりも酸味が強かったが、飲みやすくて華やかな香りが強く印象に残った。自分の栽培したものがこれほどの妙味を生んでいたとは。欧米の高級な味は知らない彼だったが、その味がわかったような気がした。自分の生み出したものだと思ってるから余計にそう感じるのか、自分の体の一部が誰かの力によって変化したような、不思議に気持ちだった。しかしそれが気持ちよかった。

「おいしい!」

 思わずそう叫ぶエルナニに、伊藤は思わず彼に劣らない笑顔を見せた。

 クールだと思っていた伊藤のそんな表情を見て、エルナニもなぜか少し恥ずかしくなった。

 少しずつ味わうようにそれを飲み干したころには、彼は家族のことを話し始めていた。

「妻は内気なやつだった。この村のものは皆そうだが、私たちは見合いで結婚したんだ。同じ村のもんだよ。あんたがたは不思議がるだろうが、見合いでもうまくいくもんだ。あんたらはそれを愛とか言ってありがたがるみたいだね。とにかく、内気だったけどおれたちは何の問題もなくやっていた。ここの村はそれでみんなうまくいっている。息子のフィートが生まれたのは、親父を倒木事故で亡くしたすぐ後だった。うちが林業をやめたのはそれもある。でもとにかく息子が生まれて、妻は育てて、そして死んだ。感染症だった。三年前のことだ」

 伊藤は親戚のおじさんに接するように聞いていた。ところどころわからない単語があるのか、両目を斜め上に向ける仕草をしばしばしたが、概ねわかっているようだった。

「フィート君はおいくつなんですか」

「二十だよ」

「軍隊に入ったのは十八の時ですか」

「そうだ。その前に母を亡くしてるが、それが入隊と何か関係があるのかはわからない」

 彼はそう言って、一枚の写真を尻ポケットに入れていた財布から取り出した。角の取れている色褪せたカラー写真だった。写っているのは三歳くらいの男の子と、傍らに立つ若い女。男の子は手に長い木の枝を持っている。剣に見立てているのだろうか。キッと決めたポーズと表情でこちらを見ている。女は無表情だ。

「これが……、フィート君と奥さん?」

「そうだ。息子が四歳のときの写真さ」

 この頃にはもう、エルナニは父を亡くしていた。林業を継ぐことになるかと思っていたが、時代の流れもあってかその方向には行かず、その後も自転車修理の仕事をしたり、農作物を育てたりして、数年前にコーヒーを始めたのだという。父が生きていたら絶対に継がせただろうと彼は言った。

「奥さん、お綺麗じゃないですか」

 エルナニは照れると思ったが、彼の目は写真の下の方、幼いフィートの写っている辺りにあった。息子は死んだわけでもないのに、なぜか彼の目は悲しげだった。考えてみれば、唯一の家族である。父、妻を亡くし(母はずっと以前に亡くなっていた)、息子は軍にいるのだ。独立の機運は高まっているとはいえ、未だ昏迷状態だし、仮に独立したとしても不安定な状態は続くだろう。

 思わぬ言葉があった。

「これをあんたにあげるよ」

「この写真をですか? 僕に?」

 彼は、そうだ、と言って、イトウに写真を握らせてその手を両手で挟んだ。

 二人とも、悲しい気持ちになっていたわけではなかったが、何か難しそうな空気が流れた。

 それから、収穫機の使い方を実践して、エルナニは一応使えるようにはなった。

 伊藤がエルナニと顔を合わせたのはそれっきりだった。その後、数件の村の農家を周って、帰国したのだ。

 伊藤は、帰国してからはその写真のことをすっかり忘れていたのだが、次の主張の準備をしていたときに、ボストンバッグの中からそれを発見した。

 彼はなぜこれを自分にくれたのだろう。

 なんともなしに受け取ってしまったが、よく考えてみれば大切なものではなかったか。それを、収穫機の使い方を教えにやってきた日本人に渡すということはどういうことか。彼と会って話したのはたった一度だけだ。

 何気なくそれを裏返してみると、ボールペンで文字が書かれていた。消えかかっていたが、かろうじて読むことはできた。彼はそれを辞書で確かめるように繰った。それはこういう意味だった。

 宝。

 写真についていた泥から、エルナニの匂いがした。

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