九月中旬のイデア
ずいぶん前に書いたエッセイですが、未発表なので載せます。
九月十五日にこれを書いている。
テレビを見ていた。夜の天気予報で、本日の気温をやっていた。それはいつも通りのことなのだけれど、何度だったかは忘れたが、本日の気温は「九月中旬から十月上旬並み」らしい。
いや、ちょっと待て。
ひとこと目で行ったように、今日は九月十五日。九月中旬じゃないか。中旬ど真ん中じゃないか。「十月上旬並み」を付け加えるのは仕方ないとして、九月中旬に「九月中旬並み」と言ったところで何の意味があるのだ。
ぼくが思うに、「○○並み」という言葉は、〈今ここ〉を基準にして、それと別物であるところのものと比較した上で成り立つ言葉ではないのか。ジャイアント馬場でない人に「ジャイアント馬場並みにでかい」とか、八代亜紀でない人に「八代亜紀並みに歌が上手い」とか言うように。これではジャイアント馬場に向かって「いやあ、大きい。ジャイアント馬場みたいだ」と言っているようなものである。二つは違うものだからこそ、比較しうるし、違うものだからこそ、同程度であると初めて言えるのだ。みんな違ってみんないい、のだ。
今回言う〈今ここ〉とは、まぎれもない九月十五日であり、これは九月中旬に入る。九月中旬を九月中旬と比較して何の意味があるのだろう。「平年並み」でいいではないか。
それともこういうことだろうか。二〇一五年九月十五日というのは、具体的な日付そのもので、一回限りのものである。それに対し、「九月中旬並み」と言うときの九月中旬というのは、九月中旬そのもの、九月中旬の本質、九月中旬のあるべき姿、言ってしまえば、九月中旬のイデアのようなものなのか。
それにしても話はおかしい。イデアと比較するのもおかしいけれど、それがそれ「並み」であることは当たり前のコンコンチキなわけで、これはジャイアント馬場本人の影を見て「ジャイアント馬場並みにでかい」と言っているようなものである。ジャイアント馬場の影がジャイアント馬場のような大きさを持っていて何がおかしいのか。九月中旬に九月中旬くらいの気温があって、それをことさらに言い立てる必要がどこにあろう。
しかし、九月中旬とはなんだろう。
静かに揺れるススキの葉だろうか。妖しい色の彼岸花の群れだろうか。攻撃的な金木犀のあの匂いのことだろうか。それらを総括した、憂愁、郷愁、悲しみ、詫び、寂び、はたまた冴えない中年男の背中のことだろうか。九月中旬のイデアとは、それらを影として持つ、なにか、山吹色をしたぼやぼやとしたものかもしれない。
そいつが九月十五日にやってきたのだ。もしかしたら、これは喜ぶべきことなのかもしれない。
そう、やってきたのだ。九月中旬が。
四月に桜の花が開くように、五月に新緑が光るように、六月にじめじめの梅雨が来るように、七月に恐ろしい暑さが来るように、八月に入道雲と水着姿の子供たちがやってくるように、九月にそいつがやってきたのだ。秋の足音が聞こえ始めたのだ。
今更ながら言うと、ぼくは秋が好きである。冬の方が好きだが、秋も好きだ。夏が終わり、肌寒くなってくると、うきうきしだす。日々の生活が楽しくなってくる。
そんな時分に「九月中旬」がやってきた。ぼくはそれに、ありがとうと言いたい。
「ほら。秋はもうすぐそこ」
アナウンサーはそうして、律儀に季節を知らせてくれた。
あっ、長袖を出さなきゃ。