言葉 ②
何年も前に、自分のブログに書いた記事なのですが、今とあまり考えていることは変わりないので、以下に載せます。
言葉の限界のようなものについて書きました。
言葉以外で考える
ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard, 1930- )という有名な映画監督がいるが、彼が言ってることとして、 「文盲教育はすべきではない」 という、やや過激な言葉がある。
文盲教育というのは、いわゆる読み書き教育のことで、われわれが小学校に上がってから(もっと前から?)教わる、文字を理解し表現するレッスン、それをやめるとどうなるか、ということを提言している。 それは私にとって衝撃的だった。
日本国民の識字率は世界随一であり、われわれはそのおかげでさまざまな文学から芸術的な刺激を受けている。それが能わずとなれば私の前にはどんな世界が広がるのだろうと、すこしワクワクしたりする。 なぜ、ゴダールはそんなことを言うのか。分かりやすい例を引用。 コペルニクスにしてもガリレオにしても、地球がまわっているということはすでに見てとっていたのですが、でもかれらはあとでそれを言葉で表さなければなりませんでした。そしてほかの人たちは、かれらがそれを言葉で表したがために、それを信じなかったのです。 (ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール 映画史』p237) 言葉というものはそういうものなのかもしれない。
コペルニクスでなくとも、われわれは日常で考えたことを人に伝える際、言葉でしか伝えられないことにもどかしさを感じることは多いのではないだろうか。
それは語彙力表現力の不足とは別に、言葉というものの力の限界を知ることである。 そんなときに、私などは、言語以外でもコミュニケーションができればいいのに、などと思うのだ。 ゴダールの真意はなかなか深くて読み取れないが、そこに映画の可能性を見ているのだろう。
それはとりもなおさず、「見る」ことの重要性なのだ。 われわれななんでも「考える」。
考えるとき、自ずとそれは言葉によっている。
私なんかは、考えているときは誰か(頭の中の仮想の実在・非実在の誰か)との会話形式で考えている。 そうすることで抜け落ちている何かはないとは言い切れない。
そこで、考えることをやめて、もっと「見る」とどうなるだろう。 この宇宙の森羅万象は、分け隔てなく繋がっている。
言葉はそれを分かりやすく「分ける」行為に他ならない。 ここからここまでが「青い」で、ここからここまでが「愛」で、ここからここまでが「公務員」で……といったふうに。 本来ならその言葉言葉の周りには、今現在言葉になっていない(けれど大昔からそこにある)何かが存在している。 イメージによる思考がそれをすべてカバーしきれるとは言えないかもしれないが、料理されていない未知の事象をコミュニケーションできるとすれば、それはそれでとても面白いことだと思うのである。
(ブログ「渚のハイソックス」より 2013/11/12 http://nagisa228.cocolog-nifty.com/blog/)