言葉 ①
こんな実験があります。
二つのグループの人々に、6人の顔写真を見てもらいます。
一つ目のグループは、この中の顔の特徴について「鼻が高い」「ハゲている」など説明してもらいます。
もう一つのグループは何もしません。
1週間後に、先に顔写真を見せた6人のうち1名を含む全10人の写真を見せて、前回に見た人がどれだったかを思い出してもらいます。
(出典:池谷裕二『自分では気づかない、ココロの盲点』、講談社ブルーバックス)
さて、成績が良かったのはどちらのグループでしょうか?
答えをいってしまうと、実は何もしなかったグループの方が成績が良かったのです。
その人の特徴を言葉にすれば、記憶に残ると思うかもしれませんが、実は、ただ見ただけの人たちの方が、顔という「イメージ」を覚えていたのです。
この実験にピンときた方もいるかもしれません。ぼくもそうです。
言葉というのは、何者でもない生の状態のもの・ことを、既成の型に当てはめるものです。
なんでもないただの人が、「鼻の高い人」になり「ハゲている人」になる。
ただそこにあるものが、名付けられた瞬間から、形を持ち始めます。
そうすることで、同じ言葉を持つもの同士、共有・コミュニケーションができるのです。
でもこれは恐ろしいことだと思うのです。
本当はもやもやとしていて、その人しか持っていない独特の質感があるのに、それを「鼻が高い」とか「ハゲている」とか一般化してしまう。
そうすることで失われる独特の質感があると思うのです。
その人にしかない特徴が、いつの間にか言語化の過程で抜け落ちてしまう。忘れられてしまう。
本当は特徴的な人なのに、どこにでもいる鼻が高い人になってしまう。
もちろんそうすることで、人はスムーズに日常生活を送っているのですが、そのデメリットもあるということです。
ものの持っている生のイメージが、料理されることで失われてしまう。
そこに、そのものだけが持つ生命のようなものがあるのに。
もやもやとしていたものが、しっかりとした形を持ってしまう。
その形は、既にある何かです。
だから言葉はフィクションだと思うです。
名付けようもない感動は、名付けようもないのです。
名前を持ったときから、どこにでもある普通の感覚になってしまいます。
そのときの感動を名付けることで感じる違和感は、とても大事なものだと思います。
感覚は言葉にできないから、意味がある。
言葉にならないあやふやなところが、本当の意味だと思います。