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スモキャピ BLOG

方言ディスコミュニケーション

方言にはその言葉自体しか持てないような、独特のニュアンスがある。

伝えたい気持ちがあって、それを言葉にするのだけれど、それに当たる言葉が方言でしか言えないときがたまにある。

それは「はいだるい」であり、「ちきない」であり、「だら」であり、「わやくそ」であったりする。

その方言が分からない人と話すとき、それを標準語に翻訳してみても、どうもなんだか違うのだ。

「はいだるい」は「はいだるい」でしかない。

もしそれを「ばからしい」と訳しても、ぼくの思ったこととは違ってしまう。

ぼくは今「ちきない」のであって、「疲れた」わけではない。

ましてや、「だら」と言いたいのに、その人に「バカ」といってしまえば、けんかになるだろう。

翻訳というのは難しいもので、訳した途端に、その言葉の持つ曖昧なニュアンスが抜け落ちてしまうのだ。

その曖昧なものこそ伝えたいことなのに、翻訳することで言いたいことのほとんどが消えてしまうのだ。

それはなかなかのフラストレーションだ。

俵万智が生まれ育った大阪から福井に引っ越したときに、関西弁でいう「〜してはる」のニュアンスをその地の言葉で言えないことに、いいようのないもどかしさしさを感じたという。

もちろん、日常生活では特に問題はないだろう。

言葉の通じないもの同士でも、自身の方言とそれに当たる標準語はだいたい分かっているはずで、適当に翻訳してしまえば大きな問題は起こることはない。

でも、でもなのだ。

お互いがかなり親密な仲で、一方の抱えている難しい、あやふやな、実体のない気持ちを伝えたいとき、伝えなければならないとき、それが方言で言うことに意味があることがたまにある。

ぼくは能登で生まれ育ったのだから、感性も能登の感性をしている。

外の人には理解できないものがあると思う。

外国人に俳句が分からないように、能登以外の人には「だら」の持つニュアンスが分からないのだ。

関西人にとっての「〜してはる」のように。

「かくかくしかじかみたいなもん」と置き換えることはできても、構造上伝わるだけで、どうしても抜け落ちるものが多くある。

外国の詩だって、翻訳では意味がなく、原文を読むことに意味があるというのもそういうことだと思う。

その抜け落ちてしまうものは、論理的に解明できるものではなく、もっと感覚的なものなので、辞典に載っているとおりの意味ではない。

だから翻訳できないのだ。

お互いが異郷の夫婦同士だったりすると、そのフラストレーションの積み重ねで、もしかしたら溝ができてしまうかもしれない。

私たち、やっぱり理解し合えないのね、なんて言って。

そんなことを思った。

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